チェチェンの子どもを支援する会
代表 鍋元 トミヨ
プロフィール

 

 1946年2月、長崎県南部の小さな港町で生まれました。いわゆる終戦っ子で、同級生の半分近くは戦中生まれですから東南アジア制圧をイメージした名前の子がたくさんいました。敗戦の色が濃かったころの特徴です。
 
両親は明治生まれで、天皇制のもと、軍国主義侵略戦争に明け暮れた時代に生きました。敗戦後、「二度と戦争はしない」と宣言した憲法が制定されたとき、もう子どもたちが戦争に巻き込まれることはない、と安堵したにちがいありません。
 そして平和憲法に守られ、当たり前の子ども時代を送りました。当たり前とは戦争がない状態で飢えを知らず学び、遊ぶことです。陣取り合戦とか騎馬戦は知っていても自分の国に「せんそう」があったことも知らずに育ちました。「ゲンバク」がどんなに恐ろしいものかも知りませんでした。おそらく両親は「子どもは戦争は知らんでよか」と思っていたのでしょう、何も話してくれませんでした。

  この60年あまり、日本では戦争がありませんでしたが、地球上はどこも戦争だらけでした。その中のひとつに1994年に始まったチェチェン戦争があります。 この戦争は、どの角度からみても理不尽でした。理にかなった戦争などもちろんありませんが、普通なら戦争を起こした側は世界中から非難されるはずなのに、なぜか黙認、容認されていました。
 戦争が激しくなった
95年のあるとき、チェチェン戦争に巻き込まれた日本山妙法寺の僧侶、寺沢潤世さんの報告会が開かれました。そのとき、私にも「何かできることがあるかも知れないーーそれはアルファベット程度ならわかるロシア語のことですーー」と思ったのがチェチェンに関わるきっかけとなりました。
 戦争が停戦になった96年の12月、市民団体に同行してチェチェンに行きました。チェチェンは焦土になっていました。

  それでも、人々は誰も泣いていませんでした。男も女も年よりも子どもも、瓦礫の山の中を背筋を伸ばして堂々と歩いていました。

 平和があれば何もいらない、あとは働いて復興すればいい。私の両親もきっとそう思っていたことでしょう。戦争のことを何も話さなかった大人たちの気持ちがわかるような気がしました。
 しかし、チェチェンの平和はつかの間でした。1999年に始まった第二次チェチェン戦争はもっと理不尽にもっと残酷に長く続きました。
 当たり前の子ども時代を送れなくなった子どもたちに何かをしてやれるかも知れない・・・・片言のロシア語でも全然できないよりは役に立つはず、と思い「チェチェンの子どもを支援する会」を設立しました。 難民支援活動には素養も経験もありませんから、暗中模索の日々です。
 この7年間のうちでもっとも印象に残った活動は、2005年の3月に日本の子どもたちとチェチェン・アゼルバイジャンの子どもたちが交流した「立正佼成会ゆめポッケボランティア隊」のアゼルバイジャン訪問です。 私はこのボランティア隊の水先案内・通訳として同行しました。
 
「戦争で傷ついた子どもたちに生きる力を与えてくれた」と現地協力団体の代表が言いました。子どもたちに何かしてやれるかも知れない、その「何か」を実感した日でした。

 
バクー郊外海辺の町、メルダキャンに暮らすチェチェン難民の親子と(2006年4月 撮影・富樫耕介)

 2003年4月からアゼルバイジャンに活動拠点を移しました。そこで出会ったいろいろな人々とのふれあいを書きつづっている雑誌「記録」の連載は36回を越えました。
 11年前、瓦礫の山を堂々と歩いていたチェチェン人は特別な人ではなく、ごく当たり前の人々です。そんな人々を誰かに知ってもらいたくてこの連載を書いています。
 難民と支援団体という関係ではなく、これからもずっと当たり前の友だちでありたいと願っています。

2008年3月記

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